江戸東京の瞽女さんたち (後編)         2007年12月

 

私が生まれ育った目黒区にも、江戸川区の古文書と、書かれた時期、内容ともによく似た「瞽女泊控帳」という瞽女の来訪記録が残されています。分量は少ないのですが、こちらには瞽女さんたちがどこの地方から訪れてきたかが記されており、明治43月から明治58月頃の記録では、来訪した人数とともに、藤沢、上州、練馬、浦和、世田谷といった地名を見ることができます。また、少し時代をさかのぼりますが、宝暦12年(1762)に石高や溜池の数などの村況を記した「指出帳」には、村人の職業を列記した中に、大工、木挽、医者などと並んで「瞽女 壱人」の記録があり、この目黒にも瞽女が来訪していたばかりでなく、住んでいたのかと驚きました。

今年刊行された山梨大学教授のジェラルド・グローマー氏の大著「瞽女と瞽女唄の研究」(名古屋大学出版会)によると、江戸時代から明治にかけて東京に住んでいた瞽女たちは、瞽女仲間を組織してしきたりを守る者、組織に属さず、いわばフリーの演奏家や音曲教授として商売をする者、上州や遠くは越後から出稼ぎにやってくる者と、一口に瞽女といっても実に多彩であった様子がうかがえます。江戸時代中期には幕府に召し抱えられ、宴席を賑わせたり、武家の子女に音曲を教授したりする瞽女が多かったものの、後期になると、出稼ぎの瞽女が増えるにしたがって旅芸人や門付け芸人としての活躍が目立つようになり、やがて明治維新で当道が廃止されると、東京という大都会の芸能市場に投げ出されていったんですね。それまで職業の独占権や扶持などで多少なりとも保護されていた瞽女さんたちが、様々な芸能が氾濫する東京の街でよるべを失い、どれほど苦戦を強いられたかは想像に難くありません。

それでも明治中頃まで、瞽女さんは困窮しながらも東京の芸能の一端を担っていました。明治から昭和初期にかけて活躍した江戸風俗の研究家・三田村鳶魚が、昭和10年頃に雑誌「文芸」に掲載した一文に「瞽女唄の流行、瞽女唄はこの頃死んだ橘之助が若い時分に、身ぶりまでしてよく真似た。(中略)我等もベンベコ三味線を抱えたウスきたない瞽女の門付けを覚えている」(三田村鳶魚「三田村鳶魚全集第二十巻」)と、記しています。鳶魚は明治3年(1870)生まれなので、これは子供時分に見た瞽女の記憶、ちょうど明治中頃の東京の瞽女の様子を語ったものではないでしょうか。

鳶魚には「ウスきたない」なんて言われてしまっていますが、「身ぶりまでしてよく真似た」とされる立花家橘之助という女性は伝説的な芸人で、慶応4年(1868)に生まれ、三味線なら清元をはじめ、常磐津、義太夫、端唄まで、とにかくなんでも弾きこなし、うたいこなし、寄席ではあまりに人気があるので、落語家ではないのにトリを取って「女大名」などと呼ばれたという、豪放かつ天才的な名手だった人物なのです。橘之助は8歳にして真打に昇進しており、その橘之助が「若い時分」というのですから、10代から20代としてやはり明治中期に盛んに舞台にかけた演目だったのでしょう。東京の寄席で活躍した橘之助が、鳶魚の印象にのこるほどよく演奏したこの「瞽女の真似」は、当然「お客にうける」演目だったわけで、瞽女唄が東京の庶民にも馴染まれていた証拠、という気がしてなりません。

この、橘之助が瞽女の真似をする「大津絵節 昔の雑唄瞽女節入り」は、明治36年(1903)に発売されたイギリス・グラモフォンのSPレコードにも吹き込まれており、なんと現在でもCD(東芝EMI「全集日本吹込み事始 俗曲編 二」)で聞くことができます。曲目は瞽女唄の代表的な演目、「鈴木主水」なのですが、その旋律は越後の瞽女さんたちがうたった戦後の録音に酷似しており、瞽女唄は本当に江戸時代から丸きり真空パックの上に冷凍保存されたような状態で、ほとんど奇跡的に変わることなく伝えられているんだなぁと、感心してしまいました。

明治から昭和にかけて東京近郊で活躍した、榎本ふじという瞽女さんも往時の名残を伝える貴重な人物です。前出の「瞽女と瞽女唄の研究」によれば、埼玉・越谷出身のふじは昭和35年(1960)の時点で90歳、レパートリーには「千住節」「越後口説き」「蚕くどき」などがあったそうです。また、竹内勉氏は自著「うたのふるさと」で、「昭和三十年頃、一週間に一度は老婆二人分の昼食持参で、東京足立区にいた東京最後の瞽女榎本ふじを訪ね、九十歳を過ぎた老婆のうたう弾きうたいの『口説松坂』に、曲の内容ではなく、うたう人のあわれさを感じて涙を流したものです」と述懐しています。ちょうど私の手元にも、榎本ふじさんが90歳の時に録音したとされる「千住節」等のテープがありますが、民謡の色合いが強められているものの、越後瞽女とのつながりも充分に感じられる演奏でした。推測の域を出ませんが、明治大正の頃には越後の瞽女さんたちと交流があったのかもしれません。

そういえば小沢昭一氏の著書「私のための芸能野史」にも、寄席文字で有名な橘右近氏が芝・新網にて、増上寺で茣蓙を敷いてうたっている瞽女を見た、というエピソードが紹介されています。このように、かくも多くの瞽女さんたちが、東京の空の下で三味線を手に懸命に生きてきた様子がうかがわれます。

……とまあ、いろいろと書き連ねてきましたが、探せばまだまだ江戸東京の瞽女さんに関する記録やエピソードは出てくると思います。実際に瞽女さんが訪れた歴史ある名主屋敷で演奏していると、そんなことが次々と思い浮かび、単なるノスタルジーでは説明できない、熱い気持ちがこみ上げてきます。

2008年もまた演奏させていただく予定なので、もしよろしければぜひ足を運んで下さいね。

 

江戸川区一之江名主屋敷のHPはこちら→http://www.city.edogawa.tokyo.jp/sec_bunkazai/sec_musium/nanusi/nanusitop.html

 

 

 

08年5月分へ

 

12月分前編へ