平成娘巡礼記

●1:四国へ 瞽女の旅

 ◇はじめに 四国路にとって貴重な報告書 早坂暁

 七年前、この欄に「四国往還記」を二年間にわたって書いた早坂暁です。

 四国往還記は、四国から出て行った人、四国にやって来た人百人を取り上げて書いたものです。

 その中に高群逸枝さんがいました。日本女性史を研究、確立した大学者ですが、その高群さんが二十三歳(大正七年)のとき、ある悩みを抱いて四国を一周し、遍路しました。そのときの手記が「娘巡礼記」です。「娘巡礼記」は四国遍路の実態が若い女性の感性で生き生きと描かれていて、大きな反響を呼び、今も出版され続けています(「朝日選書」です)。

 実にあれから一世紀近くがたちました。それ以後、若い女性による四国巡礼記は一度も書かれていません。

 今、娘巡礼記を書いた高群さんと同年齢の若い女性が、四国巡礼千百キロの旅に出かけます。もちろん高群さんと同様、全部歩き通します。

 違っているのは、熊本出身と東京出身、そして今の女性は手に三味線を持っていることでしょう。

 はたしてこの一世紀の間に、四国遍路道はどう変わったか、また変わらないものは何か。歩いている人たちだって、迎える人たちだって変わっているかもしれない、いや、少しも変わらないものがあるかもしれません。

 いってみれば、これは四国路にとって貴重な“報告書”になると思います。

 歩くのはこの写真のお二人です。右が瞽女(ごぜ)三味線演奏家の月岡祐紀子さん、もう一人は女性写真家の二木美和さんです。多分五十数日の貴重な旅となるでしょう。

     

 三月十三日 午前七時。

 和歌山港から徳島行きのフェリーに乗った。さあ、これから千百キロの歩き旅に出かけるのだ。

 私(月岡祐紀子)は、二十三歳。日本では消えてしまったごぜ(瞽女)三味線の、唯(ただ)一人の後継者だ。

 いや、最後のごぜさんは、新潟の老人ホームにいる小林ハルさん(百歳)ひとりがいるけれど、もう旅には出られない。

 私は小林さんの三味線を聞いて、心をゆさぶられた。

 ごぜとは、三味線と唄(うた)で旅して歩く盲目の女芸人のことだ。三人から五人ほどで集団を組み、前の人の肩につかまりながら、一年の三百日以上を旅して歩いたという。文献では室町時代に登場しているから、六百年の歴史がある。

 ごぜさんたちは明治時代になっても生き続け、日本各地を旅して歩いたが、一九六四年の東京オリンピックの年を最後に、実際に旅まわりをするごぜさんはいなくなった。

 その消えてしまったごぜ三味線と唄を、私が継いでいこうと決心したのは、ごぜ三味線、ごぜ唄の必死さに打たれたからだ。

 盲目の彼女たちが、恐ろしく苦しい旅に耐えて、知らない町や村の、知らない家の前で弾く三味線、唄うごぜ唄は、哀切だけでは片付けられない必死さ、懸命さがあります。

 その必死さを表現するには、都会の冷暖房のある部屋でごぜ三味線を弾いてはいけない。それでは、分からない。

 私は、目をつぶすことはできないが、せめて“途方に暮れる”旅に出よう。その旅のなかで、ごぜ三味線を弾いてみたいと思ったのだ。

 放浪の旅は、若い女にとって“最後の秘境”ともいわれている。

 「四国なら、若い女性の歩き旅でも危なくないですよ」
 と、教えてくれる人がいた。

 千キロを超える、女にとって安全な道が日本のなかにあるとは!

 まして、四国にはごぜ峠やごぜ橋、ごぜ堂などの名が残っており、ごぜさんたちが、四国のすみずみまで旅したことを証明してくれている。

 私はリュックのなかに、百年近く前に四国を歩いて回った高群逸枝さんの「娘巡礼記」を入れた。

 高群さんは、のちに日本女性史を書きあげた大学者だが、歩かれたのは二十三歳。私と同い年だ。

 その巡礼記には、こう書いてある。

 『あゝ、疲れた。
 とうとう野宿と決定。
 月が寂しく、風は哀しく。
 これから何百里、かよわい私でできることであろうか……』

 まったく、小さな体の私も千百キロの旅を歩く自信があるわけではない。

 でも高群さんは書いてくれている。

 『あゝ、泣いて行こう。
 いえ、花を摘んで歌って行こう』

 そうだった。時は春。

 「私もこれで行こう」
 と、近づく徳島港を見つめている。

(文=月岡祐紀子 )